瞳、指先、背中

原爆の子の像」には国内外から折鶴が寄せられるようですが、広島に住んでいると、それは日常の風景の一コマになっており、特に感慨を抱くこともありませんでした。

しかし、あらためて禎子さんの折った鶴を見ると、鶴をを折る子供たちの姿が目に浮かんできました。

小さな掌で折ったのかな。
背中を丸く屈めて折ったのかな。
どんな呼吸で折ったのかな。

そして、先生や大人からの勧めであるのかもしれませんが、それをわざわざ、遠方からでも持って来て捧げる。そのことが、当たり前のことではないような気がしてきました。

うつむいて鶴を折る指のその先に、本能的に自分の命に迫る危機を感じ取っているのではないでしょうか。若い命が「僕も、私も明日は同じ命。」と叫んでいるようでもあり、自分の力ではどうすることもできない幼いことの哀しみや、やっと生まれてきたことに付き纏う不安を、本能的に「わかっている」のではないかと思いました。

目には見えないけれど、折鶴に両目があるとすれば、子供たちの瞳。たくさんの瞳が見つめているように感じられました。鶴の数は、物言わない投票数です。

最近では、折鶴が燃やされたり、これまでも、嫌がらせのようなことも起きます。しかし、「何もない」が出発点。何が起きても、全てを受け入れて立ち直ってゆく所です。