原子爆弾により亡くなった人は、権力や力を持っていない人が多いのではないかと感じましたが、やはり、一般市民が多いようです。

本当かどうかはわかりませんが、国民を支配する立場の一部の人は、現代のスマートフォンのラインでつながるように、原子爆弾投下のことを事前に知っており、避けていたためとも言われています。

それとは対照的に、爆心地には建物疎開などで子供が多く集められていました。

恐らく、そのようなことは、形を変えて、いつでも、今でも、これからも起こり続けることだと思います。福島原発を見ていますと、広島はピリオドではない、始まりだったのだと思いました。

それよりも、気づかされることは、生き残った方々の心が、私たちと違うということです。1枚の神秘のベールに包まれていると感じます。

「なぜ生き残ったか」という自責の念とともに、強く「生かされている」と感じておられる方が多いです。

普通の人生において、特別な体験をしない限りは、鮮やかに「生かされている」と感じ、その思いを芯に持ち、体現できる人は、多くないと思います。

もしかすると、被爆の地で、私たちは知らない間に、日常の中で身をもって、鏡に映すように「生かされる」ということを伝え、教えられてきたかもしれません。

例えば原子力や新しい病気等で、当時と同じように命が守られない闇の時代となったとしても、それが、受け継ぐ「光」であるのかもしれません。