東京オリンピックのエンブレムのデザインを見た時には、スポーツ競技のイメージがわきませんでした。ただ、日の丸と同じ赤い丸の扱い方に、疑問を感じました。

日の丸が、柱の陰に隠れているように見えます。
立体的に想像してみると、左側から見ると日の丸が黒い柱に遮られています。何か黒いものが真ん中に陣取って、日の丸を脇に追いやっているようにも見えます。

しかし、リエージュ劇場のロゴを見て納得がいきました。
デザイナーの方は、おそらく劇場空間からこのデザインのインスピレーションを得たのではないかと思いました。
真ん中の棒は、舞台上、また、観客席のどちらにも通じて、劇場全体の柱をイメージさせ、物語を抱いているように見えます。背景の黒い色は、観客席の照明が消えた上演空間を表わしているように見えます。

視覚により、見る人の心に、作り手が感じたと思われる同じインスピレーションをもたらします。潜在意識下の様なところで、人の心がつながって、劇場のイメージを共有できる働きを持っているように感じました。

自国の国旗に敬意がなければ、他国の国旗にも敬意を払えないと思う。日本の文化が薄れているようで、悲しい。昔話の「はなさかじいさん」を思い出しました。

原子爆弾により亡くなった人は、権力や力を持っていない人が多いのではないかと感じましたが、やはり、一般市民が多いようです。

本当かどうかはわかりませんが、国民を支配する立場の一部の人は、現代のスマートフォンのラインでつながるように、原子爆弾投下のことを事前に知っており、避けていたためとも言われています。

それとは対照的に、爆心地には建物疎開などで子供が多く集められていました。

恐らく、そのようなことは、形を変えて、いつでも、今でも、これからも起こり続けることだと思います。福島原発を見ていますと、広島はピリオドではない、始まりだったのだと思いました。

それよりも、気づかされることは、生き残った方々の心が、私たちと違うということです。1枚の神秘のベールに包まれていると感じます。

「なぜ生き残ったか」という自責の念とともに、強く「生かされている」と感じておられる方が多いです。

普通の人生において、特別な体験をしない限りは、鮮やかに「生かされている」と感じ、その思いを芯に持ち、体現できる人は、多くないと思います。

もしかすると、被爆の地で、私たちは知らない間に、日常の中で身をもって、鏡に映すように「生かされる」ということを伝え、教えられてきたかもしれません。

例えば原子力や新しい病気等で、当時と同じように命が守られない闇の時代となったとしても、それが、受け継ぐ「光」であるのかもしれません。

昭和20年9月17日の枕崎台風の被害は約3,000人で、そのうち約2,000人が被爆直後の広島県民ということです。広島の被害の割合が大きい原因は、原子爆弾の破壊により、天気予報の情報を伝える通信手段が断たれたためであるということです。

しかし、この台風は実験として原爆投下に関わった人にとっては、誤算ではなかったかと推測し、記事を探してみました。実験結果を書換えるものではなかったかと。

すると、枕崎台風は長崎にも被害をもたらしており、台風通過を境に、放射能の影響力が変わってきたという記録があることがわかりました。

ふと、「清めの雨」という言葉が思い浮かび、調べてみました。
「伊勢清めの雨」とは、伊勢神宮で太陰歴9月17日に行われていた「神嘗祭」のあとを清める、9月18日の雨であるということでした。

被爆後の枕崎台風の風雨は、たくさんの犠牲者を出しただけでなく、多少でも、放射能を洗い流す作用をしたのであれば、人間には限界が必ずあり、自然の力には逆らうことができないと思いました。

また、そう思うことの方が、自然とつながっている人間の命や力を信じることにつながり、本当の進化の時代の扉を開けることではないかと思いました。

復興議会

粟屋仙吉は1943年7月第18代広島市長に就任し、1945年8月6日に、市長官舎で孫と三男とともに逝去。爆心地から南へ950メートルの近い所であったため、閃光により一瞬で白骨化し、即死であった。妻幸代、二女の康子も後に被爆により死亡。

8月9日に原爆投下された長崎は、キリスト教の伝来の地であるが、また、広島市長の仙吉はクリスチャンであったため、合同の告別式では、新約聖書の研究家でもある塚本虎二が告別の辞を述べた。

市長亡き後、生き残った議長や助役らで、8月20日に廃墟の中でむしろを敷き、市議会は招集された。

 

 

1958年

フランス映画「二十四時間の情事」(アラン・レネ/Alain Resnais 監督)の原題は「Hiroshima mon amour」(ヒロシマ・モナムール)。

1945年8月に原爆投下。その後10年ほどは「空白の10年」と言われ、広島は封印されるかのように、日本政府からの援助もなかった。その後の1958年に、広島市でロケを行い、市民も参加した映画。

映画の邦題は当初、「ヒロシマ、わが愛」であったが、公開時に変更となり、題名から「ヒロシマ」は消えた。

参考書は
ヒロシマ・モナムール」(マルグリット・デュラス、工藤庸子訳)

HIROSHIMA 1958エマニュエル・リヴァ写真集
 (主演女優エマニュエル・リヴァがロケ中に撮影した写真集
  港千尋、マリー=クリスティーヌ・ドゥ・ナヴァセル 編 関口涼子 翻訳)

いしぶみ

8月6日に爆心地から500メートルの本川土手に建物疎開作業に行かされた、広島県立第二中学校1年生全員の321名と引率の4名の先生が犠牲となった。 

参考書 「いしぶみ―広島二中一年生全滅の記録」(広島テレビ放送

夏のノート

通名詞として「原子爆弾」と言ってしまえば、それで終わってしまいます。確かな情報ではないかもしれないけれど、主としてインターネット上から拾い集めた「広島の原子爆弾」について、「夏のノート」としてメモしたいと思います。

後姿

高校野球 黙とう」で検索すると、第87回全国高校野球選手権大会、8月6日の開会式における、黙とうの件について表示されます。

その日は被爆60年目の「原爆の日」でもあり、開会式前に広島県代表の高陽東高校の生徒が黙とうを提案したけれども、主催者側に反対され、列を外れて自分たちだけで黙とうするように促されたということです。

黙とうするしないということではなく、今年70年目の原爆の日に、また、わざわざ開会式を重ねてくるというのは、本音を言うと、眉をひそめたくなります。

しかし、原爆投下の地に選ばれ、被爆した事実と歴史の当事者を思えば、何でもない事だと思い直しました。今年もこれからも、同じような場面が繰り返されるかもしれませんが、高校生にはこれが日本の現実の氷山の一角であることを理解し、黙とうに気づくような、明るく素直で暖かな気持ちを強く持ち続けてほしいと思いました。

被爆地にしかわからないことがあるのは、亡くなった方が残したメッセージ。過去と同じように排他的に扱われる局面に出会うほど、追体験をするように、わかることが多くあると気づきました。
その時に何に気づかされるかが大切で、みじめさがやがて宝になることもある。傷ついて、見方や考え方を変えたがため、尻尾をつかんで、却って全体がわかることがある。亡くなった方は悲しみだけを残してはいない。

たいていの世界遺産は、見た目にも宝物であることが殆どですが、広島にある世界遺産原爆ドームは焼け残った傷口です。

宝物自慢コンテストがあったとします。ことばどおりの財宝を持ってくる人の中で、広島は焼け焦げて壊れ、やっと残ったものを持って社会参加することになります。もしかすると、主旨が違う、そんなもの持ってくるなと言う人もいるかもしれない、覚悟がいる。

そして、全てではないにしても、広島の大人たちは金銀ではなく、その残骸をいかに残し伝えていくか、真剣に考えているのです。私一人の心の中であっても、その背中、後姿を心の目に焼きつけておきます。

被爆の責任は被爆地でとる、基本姿勢がわかりました。