踊る心
ヌレエフにはダンサーという舞台人としての本能のような、直観力のようなものがあったようです。「華麗なるダンサー ルドルフ・ヌレエフ」(シアターTV)で、ニネット・ド・ヴァロワさんが、「大スターであれば、役柄の方が本人に代わってしまう傾向にあるが、ヌレエフは役柄になりきって踊った。」とコメントしていました。「丁寧に謙虚に」役を理解したとか。何をすべきかよくわかっていたそうです。
本物の舞踊といえば、思い出す一冊があります。
芸の厳しさが人生のつらさにも通じて、励みになります。
喪失感で心が一杯になった時薦めてもらった一冊。
舞の師でもあり、自分の両腕を切り落とした犯人でもある、養父の幻のことばに、妻吉(順教)は舞台前の迷いや不安を救われます。両腕がないので、人形使いに使ってもらいながら『三番叟』を踊るというものです。(『無手の法悦』大石順教著/春秋社)
どんな場合でも、どんな人に接しても、
自分の身も心も空になってまかせよ。
身を捨てよ。心も捨てよ。でなければお前の一生があぶない。
三番叟だけではない、慢心は一生の傷だ。この三番叟の踊りを、
これからの一生を踏み出す足場として修行を積み、
この上の心の持ち方をよく顧みるのが肝腎だ。
「高い崖から落ちるところであったのです。」「ああ、恐ろしい、危うい瀬戸際であった…」と、踊れない原因に気づかされ「明るい気持ちや譬えようのないうれしい楽しさ」で、舞台で「自由に踊りぬく」ことができたのです。
ヌレエフの役になりきることと、妻吉の気づいた高い崖・瀬戸際は共通していると思います。踊りでも、やはりこのような心持ちや心理的な過程が伝わるから、感動させられ導かれるのだと思いました。