See and do

ベザリウス(1541~1564)の真のバイブルとは自然そのものであり,ありのままのものであり,ガレンや他人の書いた印刷された本ではない,科学は観察から始まるのである,という心がガレンの医学を現代の医学へと書きかえるきっかけを与えたのである.これはウイリアム・ハーベイ(1578~1657)の他人の著書からでなく心臓から学んだ,となった.さらにクロード・ベルナール(1813~1878)の,自然の語るを聞き,ただそれを書きとめるにすぎない,ともなった。

                 「生理学の黎明」監訳者の序 より



「自然は一巻の書物であり、神がその著者である」
                        ウイリアム・ハーベイ

 

昭和20年

江波山気象館は、西洋の古くからある建物のようでした。

昭和20年9月17日の枕崎台風による広島の被害と原子爆弾による被害が重なったことについて、「二重の災害」と紹介されていました。

通信手段が断たれたため、台風接近について広く伝えられず、犠牲者が多くなったということでした。

真理は踊る

懐かしい学生時代のノートを見ていると、真理について次のように書いてありました。

「われわれは次の質問を自分自身に問うてもよいであろう。真実だとその時代の者が思ったものも、100年後には不完全であることがよくわかるように、われわれののものもまた100年後にはもたもたと歩き道を間違えているのではないだろうか。」

・・・これは現在真理と考えているものも常に疑いをもって反省しなければならないことを銘記すべきであるというのであろう。

※「生理学の黎明」 監訳者の序 より



真理って大変なんですね。「遂には奔流に頭をもたげ、勝ち誇り泳ぎ行く」ことができても、今度は、100年先を見据えて、疑い、反省を重ねてゆかなければならないとは・・・。

御守り

以前、ヘリコプターが原因で交通事故に遭いました。

ヘリコプターはとても低く飛ぶことができます。

自転車に乗っている時、ヘリコプターがすぐ頭の上を低く飛んで来たことがあります。進行方向がずっと同じため、とても怖くなりました。

そのため、ヘリコプターが飛行するコースから外れようと思って、いつもは通らない住宅街の細い道に入りました。

そして、上空を気にしながら、細い道を抜けた四つ角に出たところで、車と接触しました。
自転車ごと車に乗り上げた後、人家の塀に当たって道に投げ出されました。頭で車のフロントガラスが割れ、穴が空いていて、頭から血が出ていました。

同時に、いつも持っているお守りが鞄から飛び出していて、「守られた!」と感じました。

病院の先生は、「よく無事だったね、瞬間的に頭にはトン(t)の重さがかかっていたよ。」とおっしゃいました。

脇見運転や脇見横断は危険だと思いますが、頭上にヘリコプターが飛来してくると、地上にいる側は、脇見状態にならざるを得ません。しかも大きな音で低く飛行されると、一種のパニック状態になります。

そういう経験をしましたので、飛行場を管理する側には、ヘリコプターの飛行に際しては、飛行者や飛行するルートや時間を事前にホームページで公開してほしいとお願いしました。

また、警察署と消防署で、公の機関のヘリコプターの色の特徴などを教えていただきました。

それ以来、宇宙も含めて空の安全は地上の安全に深くかかわっていると思い続けています。

空や宇宙は自由とイコールではないと思いました。人が参加するにもかかわらず、無法状態という盲点があるというのは、空においては文化が機能していないということだと思いました。

黎明

塗装する面積は同じなのに、塗料の節約とかの方針で、広島エリアを通る列車は、カープのチームカラーの赤ではなく、よりによって、わざわざ他球団カラーに塗りつぶされて、ZOOM-ZOOMスタジアムを横切って走るのでした。

考えすぎかもしれないけれど、配慮やデリカシーがないなあ、と思っていたら、赤い「カープ列車」が期間限定で運転されるという楽しいニュース。

しかし、せっかく走っているにもかかわらず、「1編成で広域を運行している」とかで、めったに見ることはできません。その希少的な存在に「なるほど」と感心し、ある言葉が思い浮かびました。


学生の頃、授業で教わった一文です。


つの真理が今水面に浮かび、今また淵の底に消えたかと思うと遂には奔流に頭をもたげ、勝ち誇り泳ぎ行く苦闘の有様を見れば、現在の知識をそれだけ明確に評価できるようになるのではないか。


※『生理学の黎明』の監訳者の序の部分に引用されている
  マイケル・フォスターのことば 



つまり、「カープ列車」は『「奔流に苦闘する有様を象徴する形』として、心に刻まれました。


せっかく存在していても、めったに姿を見せることはしない。
しかも、苦闘している。

真理って、決して華々しいものではないんですね。

 

そして、「カープ列車」という形を通して、「真理」の在り様を見て学び、誠の科学力、実力を養うことができるのかも?

空白の時

広島・長崎の原子爆弾投下は誰もが知る所ですが、三角州からなる広島市は大きな洪水被害の歴史もあるのだそうです。

周防灘台風と枕崎台風

枕崎台風は、1945年9月、原子爆弾投下直後でありながら、広島は2,000人をこえる死者行方不明者の被害であったそうです。

被爆後10年間は広島は国からも放置されたような状態であり、「空白の10年」と呼ばれるそうですが、台風被害からも静かに立ち上がっていったのでしょうか。

枕崎台風は、柳田邦男さんのノンフィクション小説「空白の天気図」の題材にもなっているそうです。

風船ガムとブリオッシュとスミレ

「巴里のアメリカ人」では他にも些細な所で、目に留まったものがあります。

♪♪♪ スミレ

マイ・フェア・レディ」と同じ脚本家のアラン・ジェイ・ライナー だからでしょうか、主人公イライザが手にする菫の花束は何か特別な感じがしましたが、同様にこの映画でも、紫色の小さな花が何か意図的に使われているように感じます。きっと作品を作った人の中に、スミレを好んだ人がいたのかな、と推測しています。
例えば、ジェリーが暮らす部屋の食卓の上や、その階下のカフェで、ジェリーたちと一緒に踊る老女が手にしている花びんにも小さな紫色の花。

♪♪♪ ブリオッシュ

ジェリーの行きつけと思われるカフェで、出てくるブリオッシュが大きくふんわりしていて、とてもおいしそうです!

♪♪♪ 風船ガム

アメリカ人で元GIのジェリー。巴里での友人は、エティエンヌ・モーリス・ジャックの3人の子供たち。風船ガムで友達になったそうです。

輝くメロディ

アメリカの古いミュージカル映画「An  American  in  Paris」(巴里のアメリカ人)の中で、気持ちが明るくなるような歌詞を見つけました。

題名ははっきりしないのですが、画家志望の主人公ジェリーが、友人のピアニスト、アダムと、アダムの友人の歌手、アンリと3人で行きつけのカフェで踊りながら歌う歌です。


 
陽気で家中が輝くメロディがほしい

      そんな時はシュトラウスを聴こう

         それは笑い歌い世界中がハーモニー

            3拍子のリズムでスウィングする


「陽気で家中が輝く」という訳がすてきです。

なかなか、現実はその正反対かもしれないけれど、敢えて「家」を「街」「国」「世界」に置き換えることができます。

靖国神社」は以前は「東京招魂社」と呼ばれていて、創建は旧暦明治2年6月29日、新暦の8月6日だそうです。

主として政治に携わる方々の、靖国神社参拝について、国内外で是非が騒がれます。

日本の戦争で亡くなられた方の遺骨はまだ、収集されていないものが多く、仮に収集されるとしても、民間に任せてあるそうです。

実際に行っていることが、参拝の心とは違っているため、形だけの参拝は説得力がないのでしょうか。

広島にも原子爆弾投下以前からの3,500以上の墓石がある、過去の戦争に関わる墓地があり、公に認められることなく、ほかの地方の陸軍墓地と同じように忘れられているということです。



マツダの創業者、松田重次郎さんの誕生日も8月6日だそうです。

  おうい雲よ
  いういうと
  馬鹿にのんきさうぢやないか
  どこまでゆくんだ
  ずつと
  磐城平
  の方までゆくんか


山村 暮鳥の有名な詩ですが、他にも「雲」の題名で、

     山丘の上で
     としよりと
     こどもと
     うつとりと雲を
     ながめてゐる


というのがあるそうです。


雲は色や形だけでなく、その動く速さがとてもすてきだなと思います。人間には表現できない動きや速度が、物質やお金や時間に支配される日々の中で、ふと自然に導かれるべきであることを、気づかせてくれます。

最近はよく、「セラピー」ということばが使われますが、お金のかからないセラピーです。

自然の脅威の象徴の様な雲、原子爆弾投下時のキノコ雲もありますが、白い色の薄くて繊細なレースのようなものもあって、それは、おしゃれです。

古事記」の中で、スサノオクシナダ姫にプロポーズする時に詠んだ御歌の雲は、「幸せの雲」とも呼ばれるそうです。

                                                        

出かけた先でモネ展が開かれているのを知り、スケジュールの合間、予定外でしたので、駆け足で見てきました。

モネ、印象派というと、その特徴として教科書的に「光」の描写と習ったような気がしますが、今回のモネの絵から感じたことは「動」でした。屋外、自然界の中の「動」です。
流れる雲や吹く風のように動きを表す描写が意外と多いことに気づき、また、ある忘れられない風景が思い出されてきました。

それは、ありきたりの日常の中で出会った風景でした。

早朝、駅のホームでぼんやり空を見上げていました。その日は風雨の夜が明けた朝で、荒れた天気の幕を引くように大きな雲が流れていました。雲が切れると、空に白い月が残っているのがわかりました。

流れる雲の切れ間に月。
そして、その上空へ向って、ビルの合間から太陽が昇ってくるのです。

最初は建物の陰に隠れて見えなかった太陽が、登るににつれて、だんだんにその姿を見せてくるので、返って動きの速さがはっきりわかりました。
月が残り、風が吹き、雲が流れ、太陽が動く。無音の世界であるのに、体中に荘厳な交響曲が響いてくるようでした。

やがて太陽が昇ると、無音の世界は変わり、鳥が囀りながら飛び始めました。

太陽と月と雲が奏でる音のない音楽と、動く早さがそれぞれに違っていても完全なる調和がとれていて、とても印象的で大きな空の舞台を見ているようでした。

オーケストラは指揮者がいますが、同じように、何者かが日・月・雲・風も指揮しているようにも感じました。

そして、「祈る」ということがあるとすれば、日・月・雲・風の背後に存在する者に対して、祈るのだ感じられました。

基本

核保有論を大きな声で唱える人。
その心の内にある基本は何かというと、「核兵器は首都には決して置かない」ということ。

広島・長崎に投下された、原子爆弾の原料のウランは、アメリカ、フォー・コーナーズ、ホピ族の住む地で採掘されたものだそうです。

原子力発電、原子爆弾という普通名詞の陰に、とてもたくさんの固有名詞が隠れているんですね。

ホピの人々は悲しんでいると、風の便りに聞きました。

私たち

「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」

広島の平和公園にある原爆死没者慰霊碑に刻まれている碑文の主語について、論争になるほど様々な解釈があるそうですが、今回の原子力発電所の事故を見て、その主語は「私たち」ではないかと思いました。

今回の震災・原発の一連の様子から、日本において、ある側面からみると原発とは富と権力の集中の化身でもあるのだなということがわかりました。そして、私たちは「贅沢さ」や「電力漬け」の状態に飼い慣らされてきたのではないかと。

例えば電力会社や政府のやり方が悪いと批判しても、それは私たちの選択の積み重ねの上に存在しています。

私たちが気づき、私たちから立ち直り、立ち上がっていかなければ、何も変えることはできないと思いました。

go on

モーリス・ベジャールさんのバレエ作品「バレエ・フォー・ライフ」は、ベジャールさん率いる20世紀バレエ団の、中心的な踊り手であったジョルジュ・ドンさんへ捧げる追悼の意味が込められているとか。踊りの中に身を投じた人生で、45歳の若さで亡くなったそうです。

この作品にはモーツァルトの曲をはさんで、イギリスのロックバンドクイーン(Queen)の曲が多く使用されていますが、ドンと同じようにクイーンのフレディ・マーキュリーモーツァルトも音楽の中に身を投じ、本物といえる作品を残して若くして亡くなっており、ジョルジュ・ドンにとどまらず、芸術に殉じた人々へ広く捧げられたものです。


またそれは、ベジャール自身の芸術やバレエに対する愛情や信念から生まれたものであり、死者に捧げられたものでありながら、鮮烈に「生」を感じさせ、生きる者を強く後押ししているように思いました。

モーリス・ベジャールさんのバレエの形は現代バレエでありながら、基本にクラシックバレエがあり、既製の形を破ることで、クラシックバレエへ回帰していて、ベジャールさん自身もバレエに身を投じた人です。クラシックバレエと会話している、そういう形です。

そして、その一筋の道が世界に対する祈りに通じています。